あるゲーマーからの手紙

食う 寝る 遊ぶ、にんげんのぜんぶ

シリーズ毎日を生きる 第四回”児童向け文学”

 子どもの頃に読んだ本で『セブンスタワー』という小説があった。

小学校の図書室の片隅で見つけたその本はいわゆる児童向け冒険小説だった。『ダレン・シャン』や『デルトラクエスト』などはそのジャンルの代表格なので読んだことのある人も多いだろう。

 私はつい最近までこの『セブンスタワー』もそれら二作と同じくらい有名で、誰もが一度は学校の図書室で見たことがあるものだと思い込んでいた。しかし、今改めてその話題を振っても、上記二作ほどに『セブンスタワー』を記憶に留めている人は私の周りにはいなかった。

 かく言う私も詳しくストーリーを覚えている訳ではないのだが、次のようなあらすじの本であったと思う。

選民思想に基づく厳格な階級社会を築き、巨大な塔の中に閉じこもって暮らす「塔民」の少年が、ある日塔の外、寒風吹きすさぶ雪原に放り出されて遭難してしまう。温かい塔の中での生活に慣れきっていた少年は塔の中に戻る方法も、吹雪の中で生き延びる術も持ち合わせていない。たまらず行き倒れた少年を吹雪の向こうから現れた一人の少女が救う。彼女は自らを雪原の民、「氷民」と呼び、塔の外の厳しい自然の中で生き抜く術を心得ていたが、同時に塔の中でぬくぬくと暮らす塔民を嫌っていた。少年と少女はその出会いをきっかけとして、自分たちの住む世界の本当の姿を知るための冒険に身を投じていく。

 

 そのほか影の魔物や宝石の魔術などが登場したことは覚えているのだが、詳しいストーリーは思い出せない。しかし、活字嫌いの小学生の頃の私が読破したくらいのものだからきっと面白かったのだと思う。機会があったらその内読み返してみたいものだ。

 

 児童向け小説にとって無くてはならないものといえばやはり「新たな出会い」と「冒険」であろう。『デルトラクエスト』然り『ハリーポッター』然り、これらの主人公は必ず物語の始まりに誰かと、あるいは何かと出会い、それを皮切りにスリルとロマンあふれる冒険に飛び込んでいくものである。

 さらに物語を強く印象づけるのはなんといっても「挫折」と「決別」である。それまで信頼していた誰かが裏切るとか、ずっと一緒にやってきた相棒と別れるとか、そういったマイナスのエピソードが少年少女を物語に釘付けにし、ハッピーエンドを求める心を揺さぶる。

 そして最後には必ず「結束」と「成功」が待っている。誤解は解け、信頼は回復し、バラバラになったピースは再び一つの形を作り出す。それは読む者の心に深く深く刻まれ、大人になった後にもふと思い出しては不思議と力が湧いてくる。そんな姿こそが児童向け文学の目指すべきものではなかろうか。

 

 言うまでもなく、大人向けの小説は必ずしもそうではない。

挫折は必ずしも乗り越えられるものではないし、一度決別したら二度と関係は戻らないかもしれない。それがリアルというものだ。

 しかしながら、大人になってからそういった大人向け文学を楽しむためには、子どもの内に文学を通して「出会い」「冒険」「決別」「結束」といったいわば「お約束」ともいえる読書体験をしておくことが重要であるように思える。

大人が大人に向けて書いた文学の前提には必ずそういった「お約束」の展開があり、それを時に利用し時に避け、読む者の心を揺さぶる。そのユーモアを理解するには「お約束」に満ちた児童向け文学から入っていくのが自然な流れだろう。

それはちょうどキャッチボールを楽しむ子どもがやがて野球に興味を持つのに似ている。高度な遊びを楽しむためには基本的な遊びをまず憶えることが近道になるのである。

 

 若者の活字離れを問題視する声もあるが、実は若者以前に子どもの世代が読書に興味を持てないのが問題の本質なのかもしれない。キャッチボールを楽しめずに大人になった子どもが野球選手になることがないのと同様に、幼い内に豊かな読書体験に恵まれなかった子どもは大人になっても本など読まないだろう。

たかが児童向けと侮るなかれ、その将来への影響力は計り知れないものがある。

 できるなら私もいつか子どもたちを夢中にさせるような冒険小説を書いてみたいと思う。それは小学校の先生や子どもの親になるよりも難しいことかもしれないが、もし叶ったらきっとそれらと同じくらい素敵なことだろう。いつか夢中になって読んだ『セブンスタワー』のように。