あるゲーマーからの手紙

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シリーズ世の中を考える 第五回”専業主婦”

 私の母は専業主婦だった。

私が幼稚園児の頃などは毎日送り迎えをしてくれたし、家に帰ってからは仕事でしょっちゅう留守だった父の分まで大いに私にかまってくれた。私はそんな母が大好きだったし、幸いなことに母も自分の子供と一緒にいることを何より好んだ。

 かつては会社勤めをしていた母だったが、家庭のことを優先して専業主婦の道を選んだ。母はそんな自らの選択を後悔したしたことは一度もなく、主婦は自分の天職であるとまで言っていた。

 私の目から見ても確かに母は専業主婦としての自分に誇りをもっているように見えた。私の前で会社員時代を懐かしむことはあっても、あの頃に戻りたいとか昔の方が自分は輝いていたとかいうことは決して言わなかったし、第一どう見てもそんなことを考えているようには見えなかった。

 それは母の性格によるところもあるのだろうが、何より稼ぎを上げる役目の夫、即ち私の父を母が積極的に肯定し、父もまた家を守る母の役目を肯定していたことが大きいように思う。早い話が私の両親は互いを愛していたのである。

 

 そんな家庭で育った私が専業主婦というものに一切のマイナスイメージを持たずに今日まで生きてきたことは言うまでもない事実である。それどころか、私はかなり長い間若者が結婚して子供ができたら女の方は仕事を辞めて専業主婦になるのが当然とさえ思っていた。

 そういう考えは女性蔑視だと今なら多くの人が言うだろう。そんな考えを公然と表明しようものなら、私は過激なフェミニストたちに二度と口がきけないようにされてしまうかもしれない。それほど今の日本社会は「女性の労働」というテーマに敏感になっている。

 私はもうそういった事情がわかる大人なので*1、あえてそういうことは口にしない。しかしながら、他でもない専業主婦に育てられた私が専業主婦を否定することなど出来ようはずもない。どこの誰になんと言われようと私は自分のその感覚、即ち女性は子供を授かったらその子のために家庭を守るべきだというある人曰く前時代的考え、を捨て去ることはないだろう。何しろ私自身がその恩恵にあずかった子供なのだから。

 

 現在「女性の社会進出」というテーマの下で女性を労働力として男性同様に扱うべきだとする考え方が世の中を支配している。私はそれ自体に反対する気はない。

女性が女性だからという理由で同じだけの仕事をしたときに男性よりも評価が低くなったり、報酬を減らされるのは明確な差別であると思うし、そういった状況は法によって是正されるべきだと思っている。

 

 しかし「女性の社会進出」といったときの「社会」という言葉が指すものが、私には時々酷く偏狭なものに感じられる。そんなとき、私はいつも自身の母とその周りの人々を思い起こすのである。

 あれはまごう方なき「社会」ではなかっただろうか。私の母は家庭という最小単位の社会の支配的構成要素であり、それら小さな「社会」は互いに繋がりあって大きな「社会」を形成する。それこそが私にとって生まれて初めて出会う「社会」だったはずである。

 

 真に女性を労働力として見るなら、これまでの日本の女性たちが労働力として何にその力を注いできたのか、その力を新しい何かに注ごうとしたときに一体何が起こるのか、それを考えることが必要なのではなかろうか。

 

 「仕事か家庭か」、その選択は辛く、大きな責任を伴う。

誰だって出来ることなら「仕事も家庭も」といきたいところである。しかし個人の能力には限界があり、例え制度上どれだけ社会が協力的であっても誰もがそれらを両立できるとは限らない。

 仕事は誰かに代わってもらえるが、親を誰かに代わってもらうわけにはいかない。そんなことが許される時が来るとすれば、それは「家庭」という最小の社会の崩壊を意味する。現代にあって私が専業主婦というある種の理想を捨てられずにいるのは、ただ私の育った家庭環境によるもの以上に、そういった事情があるからかもしれない。

*1:要出典