あるゲーマーからの手紙

食う 寝る 遊ぶ、にんげんのぜんぶ

シリーズ世の中を考える 第四回”選挙”

 私が以前コンビニでバイトをしていたときのことだが、女子高生と思しき女の子が酒を買おうと私のいたレジに持ってきたことがあった。当然私は身分証明書の提示を求め、彼女も特段渋ることもなく求めに応じた。

 ところが、証明書の「生年月日」のところを見ると、彼女は18歳であることになっている。その手の証明書の生年月日が間違っていることなどあるのだろうかと思いつつも、私は「これでは売れませんよ」と丁重にお断り申し上げた。

 

 しかし彼女はさらにこう続けた。

成人年齢は引き下げになったのだから私はもう酒を買ってもいいはずでしょう」

はて、そうだったかなと私は一瞬混乱した。すると言った本人も自分で言ったことがおかしいような気がしたのか首をかしげてしまった。客と店員が二人してしばらくそのように考えた結果、「今回はやめておこう」という線で一致し、事なきを得た。

 結論から言うと彼女の方が勘違いなのだが、同じようなことが実はあちこちで起こっていたのではなかろうかと今となっては思う。成人年齢の引き下げは実際には2022年からであり、それに先だって18歳から選挙権を与えようということになって、彼女はそれと成人年齢引き下げの件をごっちゃにしていたのだろう。

 さらに言うと成人年齢が18歳に引き下げられる2022年からも、飲酒・喫煙の年齢制限はこれまでと変わらず20歳からであるらしい。健康上の理由でこれまで20歳からと決まっていたものが社会制度に合わせて18歳からになるというのは冷静に考えればおかしい話だが、それでもどこかつまらなく思える。当事者たちはなおそうだろう。

 

 「これからは18歳から酒が飲めるよ!」と言われたら酒を飲んだことのない真面目なティーンたちはきっと喜ぶだろうが、「これからは18歳から選挙で投票できるよ!」と言われて同じように喜ぶティーンはたぶんそうそういない。

 では逆に「これからは25歳からし投票権あげないよ!」と言われたらどうだろう。「ふざけるなよこせ」という人と「まあいいんじゃない?」という人に分かれるのではなかろうか。

前者の人はたぶん、超高齢社会における若者の発言力が減衰することを恐れる真面目な若者か、あるいは単にそれまであったものがなくなる恐怖に支配された過激な保守派だろう。後者の人は選挙における投票者の責任を常に考え、未熟な自分にそれが果たせるとは思えないという謙虚で慎重な人か、あるいは単に面倒ごとが減って助かるという横着者だろう。

 

 未熟者だろうが横着者だろうがその一票を使って「民意」と呼べるものを形成できるのが普通選挙のいいところだと私は思うのだが、特に若い世代が変に身構えてしまって投票に行きそびれるパターンが散見される。

「直前まで誰に入れるか決めてなかった」「街頭演説なんて聞いたこともない」「候補者の誰がどう他と違うのかわからない」、個人的には大いに結構だと思う。わからないならわかっていないことを選挙に反映させればそれでいい。選挙なんてそんなものではないだろうか。

 そうでなければ投票日ぎりぎりまで一人でも多くの票をかき集めようと車で走り回ったり、事務所から方々に電話で挨拶したり、現役の大物政治家に応援演説を頼んだりすることに一体何の意味があるというのだろう。

 これらの活動は全て候補者の名前や顔を憶えてもらうためのものである。

大物政治家はその候補者がいかにそれまで誠実に仕事に打ち込んできたかを強調することで、信用に値する人物であることを印象づけるためにやってくる。あちこちに挨拶回りをするのも、そうすることで候補者の印象がよくなるからである。

 印象がよくなったところで政策の内容や所属する政党が変わるわけではもちろんない。つまりこれらの活動は、そういうことを大して気にしない人たちの票を集めるためにやっていると考えるのが自然だ。そして毎回選挙の度に街宣車を出してお祭り騒ぎになるのはなぜかというと、そうやって集められる票の数が無視できないほど多いからに他ならない。

 

 ここまでの話を聞いてもまだ若者は自分の手にした一票を投じるのをためらうだろうか。ためらうとしたらそれは選挙という仕組みそのものに不満を持つ意欲的な若者か、あるいは投票所に行くことすら面倒な意欲に欠けた若者だろう。

前者は投票用紙に落書きでもして出せばいい。それもまた民意だ。後者はそのままエアコンの効いた部屋でのんびりしていればいい。それもまた民意だ。

 そうして出来上がった「民意」の現れとしての国会の有様を、私は時々国会中継などを介して恐る恐る確かめるのだが、その度に思う。「民意」って難しい、と。