あるゲーマーからの手紙

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漢の義務教育 『ロッキー』シリーズを読む

 「推しの映画は何ですか」と聞かれたらいろいろと候補はあるが、もしそれを聞いてきたのが男性で、しかも家庭を持っていて息子がいるようであれば迷い無く勧めるのが『ロッキー ザ ファイナル』である。

 本当はロッキーシリーズ六作品全てを見てほしいところだが、中でもシリーズの完結編であるファイナルは集大成といっていい出来であるので、むしろ全くロッキーを知らない人はファイナルから見るというのもありだと個人的には思う。

 今日はそんなロッキーシリーズについて思うところを少々。

 

<ロッキーってどんな映画?>

 記事を書くにあたって調べてみて初めてわかったのだが、なんとシリーズ第一作は1976年の映画であるらしい。七十年代中頃といえば、日本では初代ゲッターロボがようやく生まれ、『太陽にほえろ!』にでも出てきそうな濃い顔をして煙草を吹かす宇宙人が初代メカゴジラを操っていた頃である。

 初代ロッキーがどんな話かというと、その頃のアメリカの夢と希望に満ちた雰囲気をそのままボクシングのリングに上げたような物語である。

街の一角の小さなリングでローカルマッチをするかたわら借金の取り立てのバイトに明け暮れるしがないボクサー、ロッキー・バルボアの元にひょんなことから舞い込んできた世界ヘビー級チャンピオンアポロ・クリードへの挑戦権。力の差は歴然であり、さらし者になるのがおちだと最初は乗り気でなかったロッキーだったが、自分を支えてくれる人たちのため、弱い自分を超えるため、チャンピオンに立ち向かうことを決意する。

 一作目でロッキーはアポロに敗れはしたものの善戦し、その試合内容に納得がいかなかったアポロはすぐさま再戦を申し込み、『ロッキー2』に繋がる。本気になったアポロと再び拳を交えたロッキーは死闘の末ついにチャンピオンを打ち負かし、新たな王者となるというわけである。

 

 と、ここまでは若きロッキーの立身出世物語として完成されており、特にこれ以上語るべきこともないのだが、問題は三作目以降である。ここからが評価が分かれるポイントであり、同時にシリーズの最も面白い部分でもある。

 

<国民的ヒーロー?>

 アメリカンドリームを見事つかみ取り、ガールフレンドのエイドリアンとも無事結ばれ、富と名声を欲しいままにしたロッキー。チャンピオンとして何度となく挑戦者をはねのけ、その人気は留まるところを知らなかった。大きな家を建て、豪華な家具を揃え、おおよそ思いつく金の使い方は全て試した。プロレスラーと組んでチャリティマッチを開催するなど、ボクシングの枠を越えた活動にも力を注ぎ社会に貢献、とうとうフィラデルフィアにはロッキーの銅像まで建てられた。

 

 ロッキーのボクシング人生はまさに順風満帆、しかしそれをよく思わない男がいた。

クラバー・ラング、世界ランキング1位の男はロッキーの引退宣言に待ったをかけ、報道陣の前で彼に宣戦布告する。ロッキーは弱い相手としか試合をせず、こそこそと勝ち逃げしようとしていると彼は言う。

 さらに悪いことに、ロッキーのトレーナーを務めるミッキーはクラバーの指摘を事実であると認め、ロッキーにそのことを告白する。クラバーには勝てない、試合をするなら自分はトレーナーを降りる、ミッキーはそう言ってロッキーを説得するが、彼も今更後には引けなかった。

 そしてついにクラバーとの対決の日がやってくる。クラバーは試合直前までロッキーを挑発、もみ合いの末突き飛ばされたミッキーは心臓発作を起こして倒れてしまう。

 ミッキーの危機に戸惑うロッキーだったが、ミッキー自身の意志を尊重し、クラバーとの試合に臨む。自分ならロッキーを倒せる、高らかにそう主張したクラバーは宣言通りわずか2ラウンドでロッキーをKO、圧倒的な実力差を見せつけチャンピオンベルトを奪い取っていった。

 

<ボクサーとして、人として>

 失意の内にリングを降りたロッキーの目の前で、ミッキーは息を引き取った。ミッキーは自分を守ってくれていたのに、堕落した自分は最後の試合の勝利というせめてもの手向けさえミッキーにしてやれなかった、ロッキーの心はこれまでにない強い悲しみと怒りに支配される。

 そんなロッキーの前に現れたのが、かつてのライバルアポロ・クリードだった。メディアでおおっぴらに自分やロッキーを侮辱するクラバーを見返してやろうと、そして何よりロッキーに本来の姿を、かつて自分と闘ったときのような気高いファイターの魂を取り戻してほしくて、クラバーとの再戦をロッキーに持ちかける。

 かつて死闘を繰り広げたアポロがトレーナーとなってロッキーを支え、再び全盛期の力を取り戻して雪辱戦に挑む、これがロッキー3のストーリーである。

 

<ボクシングは暴力か>

 ミッキーやアポロとの絆を描くという意味では非常に大きな意味のある今作であるが、一方でボクシング映画としては問題のある描写が散見されるのも事実である。

 まず第一に敵役であるクラバーだが、一言で表すなら品がない。ロッキーが弱い相手としか闘っていないというのは事実であり、クラバーのような若き挑戦者には堕落して見えるのも仕方のないことだろう。

 しかし、だからといって公衆の面前でエイドリアンをも巻き込んでロッキーを侮辱する意味はない。試合直前までロッキーを挑発し、乱闘騒ぎを起こしてミッキーを突き飛ばす必要はもっとない。

 実際のボクシングでも試合を盛り上げるために選手同士がにらみ合いをすることがあり、その構図は報道陣受けするものだが、クラバーの場合は明らかにやり過ぎである。これでは試合を盛り上げるどころかボクシングという競技自体の品格が問われることになりかねず、せっかくチャンピオンになってもその価値は暴落することだろう。

 しかもミッキーはそのまま死んでしまった。これでは最早ただの過失致死、下手をすれば殺人であり、ボクシングでリベンジをどうこうという以前にクラバーは刑事責任を問われねばならない。

 そしてそんなクラバーとの再戦にロッキーは勝利し、再び栄光を手にするわけなのだが、余りにクラバーというキャラの素行が悪すぎてチャンピオンに打ち勝ったという達成感よりもクラバーという悪役が倒されたことによるカタルシスの方が強く、ボクシングに勝ったというよりはミッキーを殺した犯人をボコボコにしてやったという印象が残りやすい。

 このことは『ロッキー3』という映画の個々の評価に大きく影響する。

少なくともボクシングを実際にやっている競技者やその関係者たちは恐らくこの一点においてこの映画を不快に感じることだろう。即ちボクシングを私的な復讐の道具として利用し、暴力の手段にまでおとしめているように感じられるのである。

 

 もちろん実際にはそうではない。

ロッキーはボクサーとして、人として無様に負けたままでは収まりがつかないのは事実であり、例えミッキーが死んでいなかったとしても再戦に臨んだことだろう。クラバーとの再戦がただ復讐のために行われたとは思えない。

 しかしながらクラバーが場外乱闘の末ミッキーを死に追いやり、挙げ句チャンピオンになってからも下品な態度でアポロやロッキーをこき下ろす彼の姿を見て、少なくとも過去のロッキーシリーズを見て感動した人間は彼のことをよくは思わないだろう。

結果としてロッキーがチャンピオンに返り咲き、真の姿を取り戻したことよりも、クラバーという悪者をロッキーが誅したということの方が見る者にとっては重大に思えてしまうのである。この映画の評価が分かれているのは、まさにその部分をよしとするかどうかではないかと思う。

 

 長くなってきたので続きはまたの機会に。