あるゲーマーからの手紙

食う 寝る 遊ぶ、にんげんのぜんぶ

シリーズ毎日を生きる 第二回”ペット”

 私は動物が好きだ。

特にふわふわしてたり、すべすべしてたり、触って気持ちのいい動物が大好きだ。

犬や猫などのポピュラーなペットはその典型例であるからして、私が幼少の折に両親にそれらの飼育の許可をねだったのは必然といえるだろう。

 しかし私の両親は頑なにそれを拒んだ。両親揃ってである。もうすっかり大人になった今でも、その頃の両親の息の合いっぷりを思い出すと古傷から悔しさがにじみ出る。

 

 まず父がこんなことを言った。

「お前はまだ子どもだから動物の世話なんかできない」

これにはいかな幼い私とて黙ってはいなかった。すでに同い年の友達の家に犬や猫がペットとして暮らしていることは確認済みだし、試してもいないのに私の飼育能力が彼ら友人たちよりずっと劣っていると決めつけられてはたまったものではない。

 

 次いで母がこう言った。

「動物は必ず自分より早く死んでしまう。ペットなんて飼ったら死んだときに悲しい」

これは一見私のことを案じての意見に聞こえるし、今思えば一理あるというかペットに死なれた経験のある人がそういう考えに至るのも仕方がないことだが、幼い私はこれにも反論した。死んだとき悲しいからといって生きてるものと関わらないようにしようなどと言い出したら誰とも付き合えなくなるぞ、と。私はことペットに関してはよほど聞き分けがなかったらしい。

 

 たまりかねて父は私にこう言った。

「この家は借り物だから貸した人の決めたルールでペットは飼えない」

 そうくれば子どもの私に言えることなど何もない。案外聞き分けのいい子どもだった私はそれ以上の駄々をこねず、一家が自前の家に落ち着くまでは本件を凍結するという線で納得した。

 

 ところが数年後、一家で自前の家に移り、引っ越しの段ボール箱と一緒に凍結した議論を解凍すると、解凍どころかそれは大きく燃え上がった。

父と母はそろって私にこう言ったのだ。

「お父さんは動物アレルギーなので犬や猫とは家庭内で共存できない」

衝撃の事実を突きつけられた小学生の私は大いに動揺した。最終的に泣いてベッドに伏したことは覚えているが、そうなるまで具体的に何をしたかはもう忘れてしまった。父や母になぜもっと早くそのことを教えてくれなかったのだと詰め寄ったかもしれないし、何年も信じて待ち続けたのに信じられないと罵倒したかもしれない。あるいはその手のことは全部省いていきなり部屋にこもって泣き出したのかもしれない。とにかく酷く落ち込んだことは憶えている。

 

 その後、毛のない動物なら飼ってもいいと言われた私は早速その年の夏にカブトムシを飼うことにした。ふわふわでもすべすべでもないし、触って気持ちのいい動物ではなかったが、きちんと名前をつけて毎日世話をしている内に妙に愛着が湧いてきたのを憶えている。虫の類は小さい頃から大嫌いで、触るのは愚か見ることすら嫌がっていたのに不思議な話である。

 ”チェリー”と名付けられたそのカブトムシは、その手の市場品にしては異例の長命を誇り、その年の11月まで生きたと記憶している。家の近くの小さな公園の歩道に面した木々から一本を選び、そのふもとにチェリーを埋葬した。

 思えばあれは私が経験した初めての「葬儀」だった。そのときはそうは思わなかったが、確かにあれはそうだった。私はカブトムシのチェリーと他のカブトムシを明らかに分けて考えていた。そうでなければわざわざ土を掘り返して遺体を埋めたりはしない。死体を片付けるのが目的ならティッシュにくるんでゴミ箱に捨てるか、トイレに流した方がよほど手っ取り早い。そうしなかったのはチェリーが私のペットであり、ペットの死を悼む気持ちが私にあったからに他ならない。

 

 それ以来、私がペットを飼いたいと言うことはなくなった。代わりに以前にも増して動物が好きになった。散歩しているよその犬や路地を横切る野良猫を見かけるだけで気分がよくなり、テレビが鬱陶しく思えてきた今日でさえ、動物が主役の番組だけは見てしまうという有様だ。

 しかし、私は時々自身を振り返って不安になる。もしや私は、カブトムシのチェリーを木の下に埋めたあの日から、およそ自分より早く死ぬであろう全ての動物との交流が不可能な体になったのではないか、と。

動物好きを自称しておきながら自分では動物を飼わないという姿勢は、まさしくいつか母が言った通りの悲しみにとらわれ、「動物に愛着をもって育てる」という行為とその動物の死を、無意識のうちに脳内で直結させていることの現れではないかと思うことがある。

 だとしたら、私は真に動物が好きといえるのか。

動物は好きで飼ってみたいけど死ぬと悲しくなるからやっぱりやめる、というのは、

結婚したいけど喧嘩するのが嫌だからやっぱりしない、というのと変わらないように思える。「相手を真に友達と思うなら実際には会うな」という言葉にも通ずるものがある。

 即ち、「別れが辛いから出会いを避ける」とか「信じると裏切られたとき辛いから信じない」などという姿勢は、人生を退屈にこそすれ豊かにすることは決してないということだ。「生きていると辛いから死ぬ」というのもこれらと同類である。

 

 それをわかっているからか、私の周りでペットを飼っている人は例外なくその後しばらくして別のペットとの生活を始めている。私も彼らを見習って、悲しみを恐れずに何かペットを飼うべきなのかもしれない。

 ペットといえるか微妙なところだが、とりあえずは先週買ったばかりの観葉植物の鉢に水をやるところから始めてみようか。彼らが枯れてしまったらきっと私は悲しむ。だがそれこそが、人間の生活の豊かさの一面なのではないだろうか。