あるゲーマーからの手紙

食う 寝る 遊ぶ、にんげんのぜんぶ

シリーズ毎日を生きる 第三回”近所の物音”

 巷では自分の家の近所の物音に敏感な人が増えているらしい。

近所でピアノの練習をする人あらば行ってやかましいから止めろといい、近所に幼稚園や保育園あらば行ってフェンスを厚くしろと言う。この国はすでに高齢社会であるから、主にリタイア後の静かな生活を満喫したいという老人たちがそういうことを言い始めてもおかしくない頃合いである。耳の遠い老人ばかりならそういう問題も起きないのだろうが、どうやらまだ耳は老化していないらしい。

 

 かく言う筆者も近所の物音に悩まされたことがないではない。

近所に学習塾ができた時などは、授業の終わった開放感に任せて夜中に大きな声でおしゃべりをする子どもたちを鬱陶しく思ったものだし、どこからともなく現れては聞くに堪えない音をまき散らして去っていくバイクにまどろみを侵されたことも一度や二度ではない。

 しかし夜中に騒ぐ子どもやバイクは別として、私は近所の物音そのものは嫌いではない。むしろはっきり好きと言ってもいいかもしれない。

散歩中の犬が仲のいい友達と出会ってはしゃぐ鳴き声、買い物の帰りに些細なことで駄々をこねる子どもの泣き声、駐車場から発進するどこかの誰かの高級車が立てるけたたましいエンジン音、耳をすませばほんの近場で様々なことが起こっていることがわかる。

 もしこれらの音が何も聞こえず、私の家がこうしてキーボードを叩く音やドアを開け閉めする音などが寂しく響くだけの家だったら、私は自分の家にいたいとは思わない。近所の物音は私にとって「家の中にいる安心感」と「外に出て何かをしようという気力」の両方を与えてくれるものであり、それのない生活は不安と無気力の支配する孤独な世界とすら思える。

 

 とはいえそれは個人的な見解であって、だからといって騒音問題を軽視するわけではない。幼稚園や保育園の防音は重要だと思うし、老人たちには静かな生活を送る権利があることも確かだ。

 しかしながら、近所の物音を全てシャットアウトした先にあるものが想像を絶する孤独な世界であるということは、私の個人的な思い込みではないような気がする。

我々は我々の思っている以上に周囲の音から様々な情報を絶えず受け取って生活している。夜中にうるさくて目が覚めたらすぐにそれがバイクの音だと経験的にわかるし、子どものはしゃぐ声が聞こえたらそれが近所の学習塾の生徒のものだと一瞬で理解できる。それは私の卓越した推理力のなせる技ではなく、一般的な人間の自然な反応によるものである。

その「自然な反応」の数は恐らく我々が普段意識するよりも遙かに多様で、だからこそいざそれが極端に少ない環境にさらされると、人は不安や恐怖にさいなまれるのではなかろうか。

 

 ストレス社会を生きる我々はとかくストレスを減じることを常に意識し、なるべく多くのストレス源を排除しようと躍起になっているが、果たしてそれが単にストレス源である以上に何の役割も持たない無意味なものなのかどうか。ストレス社会の一員たる現代日本の我々こそが、最もその問題を意識して生活するべきであると思う。

 キーボードを叩いている時はキーボードを叩く音だけでなく、近所の誰かが弾くピアノの音も一緒に聞いていたい。私の場合はそんな具合だ。