写真を撮れるというのは幸せなことだと筆者は思う。
写真に撮りたいものやことが目の前にあるということなのだから。写真を趣味にしている人は、そうでない人が気づかないような日常の中の些細な幸せを見つける能力に長けているのかもしれない。それかとても用心深く、いかなる時も記録というものを怠らない几帳面な人なのかもしれない。
ともかく、筆者の父はやたらと写真を撮る人であった。
幼い頃の私は父に連れられ、旅行先などでよく写真に撮られていた。どこかに着く度、何かをする度に、父はいちいち「こっちを向け」だの「そこに並べ」だのと言ってカメラを向けてきた。
それが幼い私には窮屈で、わざと不満そうな顔をしてみたり、そっぽを向いたり目を閉じたりして反抗していた。そんなことをしていたら余計に時間がかかりそうなものだが、当時の私はそんなことは気にしなかったようだ。その証拠に私の家のアルバムには、観光地を背景にばっちり顔をしかめて映っている幼い筆者の姿がある。
筆者の父が幸せを見つける名手かどうかはさておき、どうやら私はずいぶん父に可愛がられていたらしい。アルバムの厚さがそれを物語っている。
子どもの写真を撮らせればその子の親ほど上手い者はいないと写真の世界では言われるらしいが、なるほど確かにかつて筆者の学校の修学旅行に随行したカメラマンのスナップ写真にも引けをとらない臨場感が、それらの写真からは感じられた。
そんな父のさらに父、私の祖父はすでに亡くなっているのだが、ある日私の母はその祖父の遺したアルバムの整理を頼まれ、引き受けた。経年劣化でボロボロになったアルバムからきれいに写真だけを切り取り、新しいアルバムに移しかえていく地味な作業だが、母はむしろそれを楽しんでいた。
一枚一枚写真を手に取る度に、自分の夫の幼い頃のかわいらしい姿が見られ、今は亡き尊敬する義父の若かりし日の姿が見られ、またそれをカメラに収めたときの喜びを感じられるというのがその理由であるらしい。
筆者はあまり写真を撮らない。先述した幼少体験の反動もあろうが、撮った写真を印刷して整理するのが面倒というのもある。
とはいえ、やはり写真は撮るべきだと今なら思える。
もしアルバムに写真が残っていなかったら、昔の自分が何を思ってしかめっ面で写真に収まっているのかを考えることすらしなかっただろう。私の母は、自分の夫がいかに両親から愛されて育ったかを今日ほど実感することはなかっただろう。
写真を撮れるということは幸せなことだ。
そして幸せな人が撮った写真には人を幸せにする力がある。
昨今はSNSを通じて誰もが写真を不特定多数の人と共有することができるが、どうせならそういった「幸せを振りまく写真」が共有されればいいと筆者は思う。「インスタ映え」という言葉の意味が筆者には未だによくわからないが、きっとそういう趣旨の言葉なのだろうと勝手に思っている。
まあ、今のところ小さい頃の自分の写真や父の写真をSNSに流す予定はないが。